tannenbaum居眠り日記💤

観戦者の目による、おもに自転車(おもにシクロクロス)関連のすみっこネタブログです。

Wolfgang Lötzsch; the story of the East German cyclist who battled the state as well as Europe’s best riders

辛かった。しかし人間の強さというものに感動。ていうかこんなに訳してすみません。皆さんルーラーマガジン買いましょう(苦笑)

  • Wolfgang Lötzschは東ドイツ(GDR)のジュニアで向かうところ敵なし。東側諸国のオリンピックSpartakiadeで何度も優勝、71年のGDR-Tourの最優秀ジュニア選手。彼が出場するとライバル選手たちが希望を失うほど「サイクリングの王様」のようだったと当時のコーチは語る。
  • 政治的宣伝手段としてスポーツを利用しようとしていた冷戦時代、カールマルクスシュタットのスポーツクラブに居た彼はナショナルチームのスカウトに目を付けられる。18歳のある日父親と呼び出され、ドイツ社会主義統一党SED)入党を勧められるが父親は彼をただスポーツするだけにして党には入れないでほしいと言う、本人の意思も聞かれたが本人も入党に同意しない。そのことがきっかけで彼は国家によるエリート育成システムからドロップアウトすることになる。スポーツクラブからは「政治的不安定な選手である」ということで追放され、彼の「全世界は崩壊した」。数年前に遠い従兄弟(自転車選手)が西側に亡命したことも関係したようだ。
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  • しかし希望を失わず走る途を探る、BSGという実業団チーム?に所属しリーグで走ることだけが唯一の道と知る。何のサポートも受けられない中、一人でトレーニングし旧式のバイクで彼はすべてのクリテリウムに勝利したが、ほかの有力選手がナショナル選手権やRund um Berlinに招待されても彼のビッグレースへの道は閉ざされたままだった。
  • GDR Championshipsの4000m個人追い抜きで死闘の末チャンピオンを0.31秒差で破ったときはセンセーショナルだった。このためルールが改正され、実業団チームの選手は重要レースに出ることが許されなくなった。
  • レース前には選手全員にLötzschを打ち負かすように伝令が回り、ある選手は彼と話すことも禁じられ、ポディウムで彼と握手した選手はナショナルチームから排除された。が、勝ち続けた。Rund um Berlin, GDR ロードレースチャンピオンシップ、ザクセンツアー、出るたびに表彰台にのぼった。レース出走直前に「出走は許さない」と言われることも。実業団選手はアマチュア選手*1の5分後に出発するということになっても彼は追いついた。人々はLötzsch,Lötzschと彼を応援するようになり、横断幕がスタンドやコーナーに貼られるようになった。
  • ひどい落車があったが、気絶した彼はレースが過ぎ去るまで放置された。ようやくレースの車列の末尾の別チームのドクターが彼を拾い上げ病院に運ぶが数日意識不明だった。復調した彼はほとんどのレースでサスペンション扱いとなった。
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  • 西ドイツに行きたいと二度西ドイツ大使館に駆け込んだが、東ドイツ政府に正式に申請を行うようにと言われ申請するが却下(正式な手続きなんてあったのか)、違法な西側への逃亡を現行犯で逮捕しようとシュタージ(国家保安局)は期待するが、それはしなかった。西ドイツチームの監督やマスコミと秘密の会談をもち、西側のメディアに記事で取り上げられたことでシュタージの監獄に10ヶ月間投獄される。ここで彼の選手生命は終ったと見るのが普通だが、彼は毎日3000回のスクワットと400回の腕立て伏せを窓のない8平方メートルの部屋で行い体調を維持した。
  • 釈放後、シュタージは彼の自転車選手としてのライセンス自体を剥奪しようとし、彼は絶望しそうになる。ついに、表面上入党に同意し、西ドイツ行きの申請も取り下げ、レースでは全力で走らないことに約束する。
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  • 第77回のRund um Berlin、国家生え抜きの若手オラフ・ルードヴィヒらがコントロールする集団を尻目に前半から飛び出した彼は無謀な逃げでいずれ吸収されると思われたが、8分半の差をつけて逃げ切る大勝利を収め、シュタージの幹部に「彼はわれわれが尊敬することを強制しているようだった」と言わしめた。
  • 若いオラフ・ルードヴィヒとはよきライバルになった。生粋の国家サイクリストでありながらルードヴィヒは隠れた機材援助をLötzschに行っていたらしい。Lötzschは依然一匹狼のアウトサイダーだった。
  • ドイツ統一は37歳になった彼には遅すぎた。
  • ドイツ統一後シュタージの自分に関するファイルを取り寄せた彼は、彼を監視することがシュタージのスポーツ分野における重要ミッションのひとつ"Spoke"と呼ばれるものであったことを知り、彼の周りにいた仲間だと思っていた多くの人々が密告者であり、彼の動きを逐一監視していたことを知る。
  • 彼が最後にナショナルチャンピオンになったのは40歳で統合後ドイツのチャンピオンになる。エディ・メルクスが彼の話を聞いて贈ったバイクが選手生活でもっとも美しい贈りものとなった。

現在、衰退しつつあり空家の目立つ生まれた街に住む彼は、はじめてサイクリングにでかけた道を今日も走っている。
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ドキュメンタリーフィルムSportsfreund LötzschはAscot Eliteで販売しているらしいけどサイトでは見つけられなかった。

昨年ベルリンのフィルムフェスティバルで上映されてたみたい。自転車に逆風吹くドイツでこういうのを作る人もいるのですね。というか逆風の中でも走ってきた彼に何かを重ねている人もいたのかも。

  • かっこいいスキンヘッドのおじさん、と最初ティム・コルン撮影の写真を見たときおもいましたが、もう一度観るとやっぱり何かに傷ついたというか、目が複雑な光をたたえている人だなと。東ドイツ時代の(というかほとんどその時代だけ走ったのだけど)数々のトロフィーやリース(月桂樹をかたどったものを金色に塗ったもの)を集めた部屋に座る彼は、ドイツ統一が違うタイミングだったらどれだけ世界の舞台で活躍できただろう。

《参考》シュタージ(Stasi)Wikipedia

*1:東側ではアマチュアのほうが格上