tannenbaum居眠り日記💤

観戦者の目による、おもに自転車(おもにシクロクロス)関連のすみっこネタブログです。

帰宅困難&地震に関する普通の経験メモ

被害の大きかった地域のかたがたには言葉もないが、すこしでも実効力のある救いの手が差し伸べられますように。前線で奮闘していらっしゃる方々には精一杯のエールを送りたい。

東京への遠距離通勤者にはいたって普通にありがちな話で読む気がしない&こんな大変なときに読む価値がないかもしれないけれど、気持ちの区切りのためにとりあえず書いておきたい。
遠距離通勤者兼 子供(の一人:中二)も遠距離通学者の遭遇した経験からメモ(長いです)。
1) 揺れ

  • 怖かった。もうなにもかもおしまいかと思った。5階の自席にいたが、机の下にもぐって「まだ終わらない」「まだゆれてる」「ファイルおちそうだから気をつけて」などと言っていた記憶が。宮城が震源です!と揺れがおさまりきらないうちからネットで検索した若い子の声に周囲から、そんなに遠いのに、こんなにゆれてるの?と驚きの声が。
  • うちの職場はビルの3フロアに分かれているが、うち1フロアの誘導者が避難所指定の広場に誘導したらしい。うちのフロアの人々はそのままとどまった。外出していた経理の女性が戻ってきて、なきそうな声で「大きなビルがぐにゃぐにゃしなっているのを見た」と言っていた。避難場所の広場は大混雑で居心地が良くなかったらしいが、ビルの構造も信用していないのでしょうがない、と避難した人は言っていた。

2) 安否確認

  • 娘との連絡がしばらく取れなかった。部活していたままの格好でホールに集められ荷物を取りにいけず、携帯メールに返信が3時間ぐらい来なかったので、とても心配した。学校の固定電話もつながらなかった。最初の2−3時間はこれで頭がいっぱいいっぱいに。
  • 息子は都内同士だったのでほどなく携帯電話で話せたが「ねえ、塾いかなくていいかな」と言ったのにはあきれた。そういえばTV見てないのか。その後「こんなの配られた」と避難キットの写真をメールしてきた。

娘と連絡がとれた後は大いにほっとして、このあとどうしようかと考える余裕ができた。(まだ身内と連絡が取れない人々は、まだあのときの私の精神状態のままなんだろうと思うと、本当につらいだろうと思う。どんどん悪いほうに考えてしまっていた)娘は同級生の関係者の運転する車に乗せてもらい、帰宅。
3) 帰宅困難者 

  • 帰る術がない。かといって家族の無事は判明しており、無理に27KM歩いて当日かえる理由もない。ということでお泊り覚悟でスーパーに買出し。
  • 通りにでると、人々が普通っぽい顔で行き来しているのが印象的だった。スーパー店内は泊り込みが決まったらしい会社員でごった返していたが、皆穏やかな表情で同僚どうし、何か買いますかねえ。という雰囲気、しかしお弁当、おにぎり、パンの棚は空。レジの列は昼休みを上回る長蛇の列。表面上は穏やかだが、買いっぷりはパニックが入っているように思った(それは後日、というか14日月曜日現在さらに強烈になっている)

震災時帰宅支援マップ 首都圏版

震災時帰宅支援マップ 首都圏版

↑これはデスクに持っていたけれど、利用せず。
4) 時間経過を待つ

  • 信じがたい映像をTVを会議室やキッチンで見ながらほかの帰宅困難者と恐怖をまぎらわすように語り合ってすごす。他人と一緒にいる時間帯にこういう災害にあったのは不幸中の幸いかも。ひとりだったらもっと辛いね。と語り合う。会議室の一室で開催されている酒盛りがある、と赤い顔の人に誘われたが子供と合流できていないせいか、どうしてもその気持ちになれず(←普段なら迷わず合流する)。たまった仕事をここぞとばかり片付ける同僚を尊敬する(どうしてもやる気になれず)。子供の学校に行こうかとも思うが、学校でベストの対応をしてくれているだろうし、無理にぐるぐると都内を移動するのはやめたほうが良い、と同僚たちに言われる。
  • そこへ、年明けに心臓手術をしたばかりの叔母の友人が、都内で一人暮らししている叔母のことを心配して私にメールしてきた。またその矢先に夫から「銀座線が再開したから、叔母さんちにいけば」と。叔母に電話して、移動できるならおいでと言われて移動を決心。

5)徒歩移動

  • 21時ごろ5KMはなれた叔母宅に移動開始。道路は真昼のお祭りの日のように徒歩で移動する会社員であふれていた。
  • 途中、運転再開したという銀座線の駅に降りてみるが、ホームに満杯の人を乗せた電車が泊っていてうごかず改札は閉まっていた。その後途中2駅のみ、次の駅ですいている車両に乗るが、渋谷駅は危険とのことで表参道で降車。
  • 表参道駅のホームには、きちんとした服装の人たちがごろごろと直接床に寝たり座ったりしていて、特に荒れた雰囲気はないが、場所柄もあいまって異様。トイレに入ってさらに荒涼とした気持ちになったのは、夜明かしを駅でするため、ストッキングや下着を取り替えた人たちがごみを放置して雑然と山積みになっていたこと。表面上平静なようだが、もう内心はやけくそ、というかなりふり構わず状態になっているのだろうか、と思った。


大きめの通り沿いは、どこも徒歩移動をする人々で真昼の雑踏のようになっていたので、怖くなかった。叔母宅で布団で寝られることにおおいに感謝しながら就寝。
6)合流 
翌日、息子の携帯は電池切れ。ということで学校に電話して、事務室の電話口まで息子を呼び出してもらい、学校で私を待つように言う。息子は「避難キットのブランケット*1は暖かかったし、よく寝られたし、元気だから友達と二人で帰れる!」と主張するが、「早めに家族で合流したほうがいい」と説得。

  • 山手線は回復したという報道だったが、予想以上に電車がこない。それでも待っているとアナウンスが埼京線を利用して新宿方面に向かうよう誘導している。山手線をあきらめて地下鉄で息子の学校(いつもと逆方向からアプローチ)へ。学校の職員室に行くと先生方が20-30人立ち働いていた。ようやく自動車で迎えにきた父親に会って思わずニコニコするほかの生徒を見る。この時点で迎えにくるのは遠方に家のある子供か親自身が帰宅困難者だった家だろう。息子の名前を先生に告げると、学年主任の先生が真っ白な紙のような顔色で「よかった、○○くーん」と呼ぶとひょこひょこ、ニヤニヤして息子が歩いてくる。地震当時部活をしていた生徒たちのうち、一晩を学校で過ごしたのは100名超。預かる身としては神経が磨り減っただろう。暖かいメロンパンを売っている店が近くにあったので、公園のベンチで二人でもくもくと食べる。息子は、非常用携帯食(カロリーメイトのようなもので、4cm四方食べるだけで一食分ある)ばかり食べていたので食欲がいまいち。普通のおかずが食べたいと言う。会った直後より気が抜けているのか、早く家で寝たいと疲れを見せる。

↓避難キットの箱。中身はブランケット(アルミホイルみたいなの)、携帯食(カロリーメイトのようなもの)、水の四角くて薄いパック。

  • 寝たのは体育館の床。息子はバドミントン部の仲間と、部室で敷物になる布を見つけて4人で下に敷いたが、それがない子は床にじかに寝たらしい。服装は部活の半そで+長袖ジャージだけ。最初、アルミホイルのブランケットは暖かかったと言っていたが、やっぱり保温性はあるものの、ペナペナなので寒かったようだ。なぜ制服のセーターも持っていたのに着なかったのかというのはやっぱり子供なんだろう。

7) 帰途

  • 地下鉄経由でJRに乗り換えて、赤羽で乗り継ぎしようと思ったら満員電車がたまに来るだけ。息子がご飯を食べたいというので、昼食を摂って時間をやりすごすことに。しかし、息子は途中で食欲がないといって、いつもならがっつり完食するようなラーメン餃子セットを残してしまった。その後ようやく乗った列車が空調が暑かったのか「気持ち悪い」とつぶやくが満員で座れない。立ったまま目を閉じてうつらうつらしている。
  • 大宮に降りたら、池袋あたりの普通の買い物客とはまったくちがう帰宅難民な感じの人たちが駅構内の通路に多数床に座って黙々と電車の復旧を待っていた。その人たちのためか、改札口を開放していて電源が入っていなかった。同じ首都圏で池袋と大宮でこんなに雰囲気がちがうなんて、と感心しながらも、もういい加減家に帰りたいと半ば狂おしい気持ちになってくる。
  • 帰宅。マンション高層階で、すでに義父が倒れていた棚を元に戻してくれていたが、飛び散った品物で床に足の踏み場がなかった。割れているものもあり。大型冷蔵庫も前のほうに移動していた。液晶TVのアンテナケーブルはTVが落下したせいなのか、千切れていて画面が映らない(オーブントースターとプリンターも床に落ちていたらしい)
  • 息子は震災や津波を報道するTVをまだ見ていなかったので、途中のキオスクで新聞だけ見せておいたのだけれど、TVで見てしまうと眠れなくなると思い、おきてからTV見ようねといって寝かせた。
  • その後夫の実家の状況が判明。地盤がいまいちよくない3階建ての2階3階部分の棚が多数倒れ、食器やビン類が粉々になったりして片付けに近所の人たちがあつまるほどだった。外壁がところどころ剥落、1階の店舗部分も道路に面したガラスが大きく破損。店の前の道路沿いに張った日よけテントのがっちりした構造部分が、店の本体とはちがうたわみ方をしたために、ガラスに変な力がかかったのではないか、と建築会社の人が言っていたらしい。

家族は無事だが、実家はなかなかの損害だ。
でもやっぱり無事でよかった。状況が落ち着いたら夫は現地にボランティアにいくかもしれない。市の同業者団体がもう動き始めているのだとか。

  • 同僚の一人が、茨城県の実家が全壊し、家族は無事というのが夜になるまでわからなくて、泣きそうになっていた。その後無事が確認できたが、とにかく妹と途中地点で合流したいといって、早めにオフィスを出て行った。こういうときは血のつながった家族で一緒に居たくなるものだと思う。私も叔母の顔をみてようやく人心地がついた。今TVで被災地で離れ離れになっていた親子が再会するシーンなどみて、やっぱり家族で一緒にいるのが一番、と思った。

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そんなふうに帰宅した翌日に小僧はもう「塾(新宿)と学校の球技大会の練習がある」と普通にでかけようとしたので、私は半ばヒステリックになって「今日ぐらいは家にいなさい」と泣いた。夫に何言ってるんだと諭されたが、余震もある中、ようやく前日「ピックアップ」したばかりの子がまた行ってしまうというのがとても信じられなかった。

  • 今日TVで「息子が高校の部活に出かけていて、3時には迎えにいくはずだったのに、息子がいまどうなっているかわからない」とさめざめと泣く母親を見て、いつどこの分かれ道で人生がそうなってしまうか判らないと思った。
  • でも日常生活は続けなければならないし、引きこもらせるわけにもいかないし、息子は球技大会の練習がとても楽しかったといって元気に帰宅してきた。

どうも私だけがへんに引きずっているような感じだ。
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  • なお夫も娘の級友を学校に車で迎えにいったら、息子がもらったのと同様のアルミホイル様のブランケットをひらひらさせてはしゃぐ「本日中にはお迎えがない女子生徒たち」の一群を目の当たりにして、一種異様なインパクトを感じたらしい(苦笑)

*1:アルミホイルみたいなもの