tannenbaum居眠り日記💤

観戦者の目による、おもに自転車(おもにシクロクロス)関連のすみっこネタブログです。

泥の貴公子、小坂光選手インタビュー(2)

 

 

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 (以下、子供時代・学生時代の写真は小坂選手提供)

週末、レース会場に居るのが当然だった子供時代

・真っ黒でやんちゃそうですね。今と印象が違うような。

印象が変わりやすいと言われます。 

・確かに、ブリッツェンに入った年でしたか、ヒカル選手がパーマをかけたのが評判になりましたし*1その後も筋トレをして体型が変わったりとか、見た目の印象はけっこう変動ある印象ですね(笑)

(ヒカル選手のことはおむつのころから知るというMillet.Kさんの発行していたTune Up Pressについてヒカル選手に見せる)

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ああこれは、もう、20年前ですね。そうですね。毎週末家族でレース会場にいました。

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(父、小坂正則選手と)

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(当時来日して信州シクロクロスに出場していた、のちに初代シクロクロス女子世界チャンピオンとなるHanka Kupfernagelと。)

・レース会場にいるときは何をしていたのですか?

だれか同年代の遊び相手がいるということはなくて、一人であたりの山の中で遊んでました。それで楽しかったです。

・遊園地に家族でおでかけするような感じではなく。

あたりまえにレース会場にいましたね。

・小さいころから大人がレースをやっている会場に通って、何か特別礼儀とか言葉づかいが身に着いたとかありますか?

特別そういう自覚はないですね。ふつうにそこに居たという感じです。

・とにかく、当然の世界だったんですね。レース会場が。。子供の頃から自転車競技をやっていたのですか?

たまに子供クラスのレースに出たりしていましたが、サッカーをやっていました。トップ下かサイドバックがポジションで、テクニックがあるタイプの選手でした。

・サッカー選手になるのが当時の夢でしたか?

サッカー始める前の小さいころは自転車の世界選手権で優勝する、と思っていました。

・それはTVか何かで?

父親がやっていた競技だからですかね。

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(スワコレーシングのジャージ、こんな小さいサイズもあるんですね。)

・子供のときのサッカーで活躍する子は運動神経がいいイメージです。小さいころは別の競技をやってきた子が良かったりする、といいますよね。

そうですね、柔軟性や細かいシクロクロスの動きなどへの対応は自分はサッカーをやっていたことが活きていると思います。

サッカーでは地域選抜選手に選ばれたこともありましたが、学年があがるにつれて体格が大きくなかったので、当たり負けするようになり、面白くない思いをすることが増えたんです。

サッカーをなんとなく続けていた高校1年の冬に、出ないかと誘われて出場したシクロクロスが面白くて、その年にC2まで上がり、高2の時にC1に上がりましたが、そのころはレースに出るだけでした。

高3は受験のためにお休みして、大学に入学して自転車に取り組み始めました。

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 (自転車の面白さに目覚めていった頃)


父の無言の教育と息子の成長

・自転車の練習については、どんな形で?

高崎経済大学はサイクリング部しかなく、もっぱら父について走るのが練習でした。

・クラブチームに入ったんですか?

父と同じスワコレーシングに所属していましたが、佐久と諏訪湖は離れていたので、毎週行くことは難しく、父と走っていました。

・お父さんが厳しく手取り足取り自転車の指導を?

あれこれ言われるというより、父と一緒に走ることで学んだと思います。大学一年生のときはまだ弱くて登りでガーっといくオヤジについていくのが難しかったのですが、二年生になると大丈夫でした。

・お父さんは細かいことはいわずに見守る感じだったのですか。

勉強のことでも、一回一回のテストの点数を取り上げて注意するということはなくて、総体的に「しっかりやってるんだろうな?」という無言の雰囲気というか圧力が漂っていて。それで、しっかりやらなければ、と思いました。

・無言の圧力。笑。小坂お父さんにそういわれると、そのほうが効果あるかもしれませんね。

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(2011-12シーズン 全日本選手権

具体的な細かいことで注意を受けた記憶は、自転車でもないですね。

・それで勉強も真面目にやって国公立の大学に入って。今も仕事とレースの両立をして、ということが自主的にできるというあたり、基本的に根が真面目なんですね。A型ですか。

どうなんでしょう。A型ですが。本当は自転車選手が沢山集まっていた松本に行きたくて、信州大学に入りたかったですが、希望が叶わなかったんです。

・そして大学入学後、本格的に自転車に取り組み始めて一気に強くなったんですよね。在学中にブリッツェンに入ったんですから。

たくさん乗ってましたからね。授業の関係で難しい日以外は毎日2時間程度乗っていました。2年生のときは実業団のE1で毎回入賞するぐらいの力がついていました。それで大学2年の冬、創設時のブリッツェンから声がかかって。

・そうするとそのときはロードメインということで。

ロードとともにシクロクロスも冬に走らせてもらえるというのを最初から条件として認めてもらっていました。

・ブリッツェンの創設時から今まで在籍しているんですね。

創設の時から居るのは自分だけですね。一番古いです。

・では、威張ってもいいんじゃないですか?もっと(笑)

まあ、でもシクロクロスチームということでちょっとカテゴリーが別なので(笑)

・最初からチームにいることもあって、周囲や地元の人たちにはさぞ親しまれる選手になったんでしょうね。

まあそうでしょうね。たくさんの人に毎回応援してもらえて、本当にありがたいです。

・しかし大学時代は家が佐久で、学校が高崎で。

下宿するよりはいいということで、新幹線通学をしていました。

・遠距離通学、さらにブリッツェンの活動。

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(2010-11シーズン   野辺山)

佐久から新幹線で学校にいって、両毛線で宇都宮に移動してブリッツェンの活動をしてから電車で大学に戻ったりして。

・三地点の移動、毎日大変じゃないですか。。

でも3,4年になったら授業もそんなにいかなくていいし、時間はとれましたね。

・単位はばっちり下級生のうちにとっていたんですね。

そうですね。1、2年のうちに単位をしっかり取っていたので、3、4年の時は練習時間が沢山とれました。落とした授業の単位は一つだけだった気がします。世界選と試験の時期が重なっていたので、教授に掛け合ったのですが、やはり試験の日に試験を受けないと単位はやらないと言われてしまって。

・そういう考えの教授だったんですね。それ以外は全部落とさなかったのは、真面目ですね。そうなるとアルバイトなんかしていられないでしょうか。

アルバイトはあまりしませんでした。海外遠征に初めて行ったのがブリッツェンに入る直前の冬だったんですが、その前の夏休みは資金を稼ぐために中華料理店でアルバイトはしました。

 ・ホール担当ですか?

キッチンで皿洗いと、簡単に餃子を並べて焼くぐらいです。

・寝る時間ありましたか?

それは大丈夫でした。 もし大学時代に下宿していたら、自己管理や家事、料理などが大変で、今の選手としてのレベルにはなっていなかったような気がします。実家で母親が食事を用意してくれて、色々やってくれたので、今思うと大変助かりました。

・なるほど、選手としての成長期に実家にいたメリットがあったと。お母さまは以前お話ししたときに夫と息子が揃ってここまでの選手だというのにちっとも威張ったところがなくて、「自分は何も特別なことはしていないんですよ。」と穏やかな感じで話しておられました。

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・いつか茨城CXの会場にお母さんがいらしていて、お父さんと、ヒカル選手分のおいなりさんと、切ったりんごを用意して、さりげなく差し出すサポート体制、それをもくもくと食べる父子、これは何十年続いてきた姿なんだろうか、と印象に残っています。

母親は本当にありがたい存在です。今も、オヤジと同じレースのときは「おにぎりはいるか」と聞いてくれたりして。

・いいですねー。


ブリッツェン入りと宇都宮市役所就職前後の悩み

・私が最初にヒカル選手を見たのは、おそらく2007年のビワコマイアミランドのレース、スワコレーシング時代だと思うんですが。その時に父子選手だというのは教えてもらいました。

・その後、2010年のジャパンカップ、山岳ポイント狙いでドラパックの選手と競っていた姿は印象に残っています。

http://tannenbaum.hatenadiary.jp/entry/20101104/p2 ←2010年ジャパンカップ観戦時の当ブログ。古賀志山頂の熱狂する人垣の間を決死の表情で山岳賞を取り合うヒカル選手とドラパックのThomas Palmer。前日のクリテリウムで勝ったパルマーが容赦なく山岳賞ももぎ取った。

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(2010年   ジャパンカップ。レース中のヒカル選手を撮影したいちばん最初かもしれない)

あれは、悔しかったです。山岳賞取りたかった。あとで聞くと相手のパルマー選手はトラック競技でジュニアのときに世界タイトルを取るぐらいの選手だったようでしたが。

・ブリッツェンはロード選手として声をかけたわけですよね。シクロクロスについてはチームとの間はどういう約束になっていたのでしょうか。

シクロクロスも走ってよい、という約束で入団しました。
当時シクロクロスのレースの時にはブリッツェンのジャージを着てフレームもチームサプライヤーのクオータでしたが、ブリッツェンに来て当初はチームのサプライヤーのクオータからフレームを提供してもらってました*2。レース時のスタッフによるサポートはなくて、父のスワコと同行したりしていました。

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(2010-11シーズン  全日本選手権。赤いフラッグのサポーター集団こそ居なかったが、赤い上着のチーム関係者、栗村さんらがゴール地点で激を飛ばしていた記憶)

・ロード選手としても、山もなんでもこなせそうだし。

まあ、そうですね。それで、就職するときにはかなり悩みました。このまま自転車一本でやっていきたいという気持ちもありましたし。 

・でも市役所に受かった。

そうですね。

・受かってからも悩んだということでしょうか。

受かってから、ロードで成績がかなり出るようになって、全日本実業団もけっこうよく走れる時期がきて、自分でも「だんだん、来たな」という実感もありました。

・そんな選手としての好調な時期の直後に就職してたまたま配属先が多忙な部署だったので、余計に就職一年目は苦しいものがあったんでしょうね。

最初のころは、そのあたりはありましたね。

・自転車だけやってたらよかったのではないかと。

そうですね。。

・でも公務員というのは、お父様も公務員と両立していますし、そのへんはアドバイスがあったりしたんですか。

自分で決めろ、という感じだったですね。まだ引退してからの人生もあるし。僕らの時代ではまだちょっと難しいかなというのもありますし。

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(2013-14シーズン   飯山 横山選手との名勝負を制した)

・それは自転車だけで食べるということについてですか。

そうですね。選手だけでやったとして、それで、というところですよね。このあとメジャースポーツになれば変わるかもしれませんが。

 ・そのあとの人生もありますしね。でも進んだのが、しっかりした勤務先だし、部署によっては、一般企業より残業が少ない可能性はあるし。

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(2012-13シーズン   GPミストラル

今、考えたらこの選択でよかったかなと思っています。周囲も理解がある場所で。

・就職一年目の苦労は大変だったようですね。私も当時直接ヒカル選手から、大変です、という言葉を聞いた記憶があります。

はい、こんなに大変なものだったのか、と思いましたね。就職と同時に実家を出て一人暮らし始めたというのもありましたし。

・今まで実家だったので同時に家事ものしかかってきて。

そうです。

・最初の配属先は残業が多かったようですね。

社会人になって4年間は残業が多い部署で結構大変でした。

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(2012-13シーズン   GPミストラル

・練習時間も制限されてしまったと。次にまた忙しい部署になったら大変ですね。

周囲も自分がやっていることを、前よりわかってくれてきていると思います。世界選のときは公休扱いにしてもらえましたし。

・世界選となるとそうなんですね。また、宇都宮の土地柄というか、自転車に理解のある地盤というのもありますし。年末年始は自分の有給で?

そうです。あの時期は仕事が立て込んでいたので、神経を使いました。その後に世界選でまた休む予定でしたし。世界選のあとの仕事が大変になるかもしれず思いやられたのですが、それがなくなったのはほっとしました。

宇都宮城址でエキシビションがあったときに、前の部署の同僚のかたたちが「ヒカル」と書いたキラキラうちわで応援していたので、お話ししたんですが、忙しくても競技を理由に仕事をおろそかにすることが全くない誠実な素晴らしい人です。と話してくれたのが印象的でした。

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 (2015-16シーズン 宇都宮。同僚の方々から、ヒカル選手の誠実な仕事ぶりについてお聞きした)

そうなんですね(嬉しそうな顔)。忙しかったんですが、和気あいあいとした部署でした。人数も多かったんですが。

・仕事の内容をひきずったりしないようにする、気持ちを切り替えるのには何かしていますか。

特に、そんなに切り替えに苦労するようなことはないですね。

・すばらしい。もともと真面目だから。

どうなんでしょう。周りの人たちがとても応援して、よくしてくれるので。


仕事があるからこのレベルで、というのは無い。

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(2014-15シーズン   全日本選手権

・社会人生活と練習、どちらもきっちりこなすヒカル選手は生活にほかの要素が入る余地はなかなかないのではないですか。

趣味というものがないんですよね。。やる時間もないんですけども。オートバイは乗ってみたいですね。一度林道で乗ったときに、本当に楽しかったので、かなり興味があります。

・そうすると、現在の気晴らしはどうやって?

飲み会ですかね。。趣味は飲酒、みたいな(苦笑)

・肝臓の力で気分転換をしていると(笑)

お酒自体が好きなのと、その場が好きなんです。

・シーズン中は飲んでもいいんですか?

支障のない範囲でなら。

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(2016-17シーズン  幕張)

・でも、特殊なことをしなくても解消できている、ということですね。

誘いが多いので、ついつい行っちゃう、というのもあります。会社の同期とか先輩とか、チームだったりとか、以前ブラーゼンのチームメイトだった鈴木龍とか。ちょくちょく宇都宮に来るので。

・お店はきめているんですか?

ここしか行かないということではないんですが、よくいくお店はありますね。

・宇都宮は飲食店は多いですしね。以前宇都宮のビストロで、クロスファンでない友人とランチをしたときに、お店の人が小坂選手だけでなくお父さんのことを50歳代で現役選手と知っているのでびっくりしました。

ああ、みはしカフェですかね。あのお店の方はブリッツェンを応援してくれています。

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(2013-14シーズン   飯山)

・そういえば、以前はレース会場で小坂さんといえばお父さんの正則さんだったのですが、最近は小坂さん、というのがヒカル選手、正則さんが小坂お父さんとか小坂パパとか言われることが増えているように感じますね。

そうですね。呼び方が逆転してきたかもしれないですね。小坂オヤジとか。

・私が見始めたときヒカル選手はずっとお父さんの後ろを走っているイメージで「なかなか父を超えられない息子」とまでいわれていた時期があって。

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(2011-12シーズン 全日本選手権

大学1年の頃なんて、父との力の差は相当あったと思います。

3年くらい前からですかね。。といっても去年もおととしも負けたレースはあります。 

 ・その後ヒカル選手がお父さんに勝ち始めて、それでも、依然としてお父さんはいまだに日本のトップレベルにとどまっているのが素晴らしいですね。

オヤジは今シーズン強かったですね。。職場が近くなったんで。練習量が増えたようですね。

・お父さんは、暫く新幹線通勤していましたよね。

今は自転車で10-15分のようです。

 ・公務員の配属替えが、小坂親子の練習に影響しているわけですね。

オヤジは国家公務員ですから、転勤はつきものなので、近くなれば楽になるし、遠くなると練習が大変になる。自分は市役所なので、出先はあるにせよ、市内なので。

・それをずっとしのいでこられたんですね。。大変ですね。。

それに伴い、辛い時期もあったようですね。

・普通のホビーレーサーも仕事や家庭との両立で苦労しながら競技をしている人が沢山いますが、ヒカル選手は公務員という仕事をフルにこなしながら、コンディションを常に維持しつつ、なおかつ日本トップレベルを戦っているんですよね。

そうですね。自分の場合はずっとオヤジをみてきましたから。仕事があるからこのレベルで良いだろうというのがなくて・・・そのあたり自分はオヤジが基準になっているような気がします。

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・睡眠はばっちり8時間寝て練習2時間ですか?

睡眠はそこまで確保できていないかもしれないですね。6時くらいに帰宅した6時半ぐらいからに定時後に練習1-2時間して、夜9時頃になってしまうので、食べるのはその後になります。自分で作るときもあれば、チームでお世話になっている飲み屋さんで食べさせてもらえるので。よく行きます。

・家庭のお母さんみたいな料理を。

そうですね。肉じゃがとか。あと沖縄料理とか。おいしいです。ゴーヤチャンプルーとかフーチャンプルーとか。

・おいしそうだし、バランスよさそうでいいですね。家事に時間とっていたらきりがないですよね。

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そうなんですよ。あっ、飲むのが好きだから、おつまみを作るのを趣味にしてもいいかもしれない。人を呼ぶから、家も片づけるし。(笑)

・是非、おつまみの達人になって、居酒屋ヒカル(笑)やってみましょう。お客さん沢山来そうですね。

 

やりたいことが実現してきた環境

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・ブリッツェンのシクロクロスチームに、という流れ、職場からの応援の声、地元の応援を見ているとヒカル選手の人柄とか、普段の仕事への姿勢とかがあってのことなのではないかと思います。それが伴わないと周りも理解や応援はしてくれなかったでしょうし、自分で築いてきたものですよね。

自分がブリッツェンに入るときから、当時の社長に宇都宮でシクロクロスができたらいいねという話はしていたのですが、それがやがて実現している。それがとてもよかったと思っています。

・ヒカル選手が自転車が盛んな街のチームとご縁があって宇都宮にシクロクロスを導いてこれたという、良いめぐりあわせを感じます。宇都宮の豊かな自転車文化の一つとしてシクロクロスをもたらし、自らも選手として力が発揮できる。意義のあることですよね。

そうですよね。意外とやりたいことができてきている感じがするんです。

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(2016-17シーズン  みずほの)

・動いてくれる人が沢山いそうですよね。アイデアや計画を具体的に実行してゆける。

そうなんです。17-18シーズンは宇都宮で初のUCIレースが開催されますが、海外からの招待選手など、思い切った提案もしてみようかと思っています。驚くような人を呼ぶ話をしてもネタで終わらせないで具体的に検討するような人たちが宇都宮にはいます。

・末永く、やりたいことをいろいろと形にしてゆけそうな環境ですね。就職前後は悩みがあったかもしれませんが、ヒカル選手の人柄と、宇都宮という土地柄のマッチング、このポジションを活かしていけると可能性が広がりそうですね。

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そんな気がします。竹之内選手とは同い年で、仲がいいのですが、彼が海外に挑戦する部分を担ってきてくれて、自分は日本でシクロクロス競技の発展に貢献できる、そういう役割分担のようなものがお互いできたらいいね、と話をしたりしています。

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(了)

*1:Hikaru Kosakahttp://www.dewielersite.net/db2/wielersite/coureurfiche.php?coureurid=57429 ←ヒカル選手のパーマヘアの写真をウェブ検索してみたが、このベルギーの選手情報サイトでようやく再会できた。

*2:その後国内のラインナップから無くなったため、フレーム、ホイール共にボーマから個人的に提供を受け3年前はミヤタのスチール、2年前からメリダのフレーム。