カワウソのあとの祭り
2021-22シーズン、シクロクロスのレースがふたたび開催されるようになってきた。トンネルからようやく抜け出した感。主催者の皆様は苦しい決断の連続の日々を耐えてまた開催を再開してくださって頭が下がる思いであります。
マスク越しの再会はすぐに誰かわからなかったりするけれど、元気だった?と言い合い、おうち時間が増えて体重が増えただの、逆に減っただの。練習してないとかレース慣れしていなくて、、とか。
世の中が様変わりしている間に別の楽しいことをみつけたり環境が変わってレースはお休みが必要な人もいるかもしれない。でも新しく興味をもって新たにやってくる人もいるかもしれない。
レースがない日々、私はしばらく一眼レフで庭に来る猫とか草花くらいしか撮っていなかった。フィルムカメラが義理の実家で発掘されてすこし試したけれどランニングコストが高すぎ。。
そこへ娘が突然カワウソを動物園に見に行くことに熱中しはじめ、どんなカメラを買おうか物色していたので、私は持ってるうちで軽量なほうのD7500を貸して撮り方を教えた。自分が忘れないためには役立ったかもしれない(マニュアルモードを推奨したけど娘は結局万能ズームでAutoモードで撮っている、GoProを買って動画撮ったり)。
動物園に同行すると、よさげな撮影機材を携えた男女に必ず遭遇し、年間パスでコンスタントに動物園に来ている様子である。撮り鉄、じゃないし、何ていうのか?撮りブツ?
黒づくめの服でシャッターチャンスを待ち望遠レンズピタリと構えている(三脚は禁止)居合抜き達人風の人とか、仲間と自分のブログやらインスタ?見せっこでおしゃべりが楽しそうな人たちがいる。
野鳥を撮るために水辺や草むらで大砲レンズを三脚に据えひたすら静かに待つ人たちの存在は知っていたが、動物園の動物撮影マニアというのもいるんだ。。
一人でいた眼鏡青年に聞いてみると、何年も通っていて、デジタル一眼(フルサイズ)と父親から譲り受けたフィルムカメラは動物園でしか使わないと。2-3種類の動物に絞っており季節や天候、時間帯での変化があり、なかなか動物の行動(動いてないと撮り甲斐がない)が読み切れないらしい。地元の年間パスを持っている動物園だけでなく、遠方にも行くのでフィルム代や旅費につぎ込んでいますよ。。とのこと。
真昼はカワウソは寝ている可能性が高いので朝と夕方に来るけれど、天気や季節で違うこともあるとのこと。
そしてこういう話を聞いても特段違和感を感じない。。娘には同じ趣味の人同士の会話に見えたといわれた。
私の趣味の撮影対象は話ができて感情や思考が理解(想像)可能な人間(で特定の競技中)である。しかし撮影対象の皆さんのレース当日のコンディションや動作、また会場の天候や路面状況はただそれを受け入れて対応するしかない。天気悪くてもほとんど開催だし。
というところが動物園撮りとは似ていて違うかも。動物は考えていることが分かりにくいし。逆に動物園には無理に嵐の時にでかけたりはせず、翌週以降に延期するはずだ(と娘に言うと、カワウソは雨のときに活発に動くので天気悪いと中止にするとは限らないのだとか)。また、路面状況もはたで考えるほど一定ではなく、ある動物園ではカワウソのために草の生えた運動コーナーみたいなのを作ったが、すぐにカワウソが草を食べつくし禿げ土になってしまったのだそう。
とかいろいろ考えていると、レース前の準備や撮影時の心構えにおいて
・確実な部分
(例:コースに砂浜、激坂、というのは事前に決まっている)
(例:こんどやってくるのは聖くんなので跳ぶだろう)
・傾向からして多分このあたりだろうと想定可能な範囲の部分
(例:過去にその会場ではコース沿いで広角レンズが活用できる場面は少なかった)(例:轍をみるとここはほとんどの走者がコーステープギリギリを通過するだろう)
・ふたを開けてみないとわからない部分
(例:前日雪予報だが当日溶けて泥かもしれないし深く積もっているかも)
(例:もう一周回、遅れ気味のあの人を待ってからゴールラインに行こうと思う←80%で切られる可能性がある)
があるので、いろんな不明点をふわっとさせておかずに因数分解して各レース前に整理しておけば、無駄な持ち物や現場での失敗や、うまくいかなかったときの失意を緩和できる可能性は上がるだろう(←言ってみてるだけ)。
ちなみに、野辺山は大いに広角レンズを使う場面があったが、小貝川と幕張はそうではなかった。
事前に悩むにしても望遠レンズの選択肢がもっとあるといいけど70-200しか持ってないからどちらかというと長靴もっていくか、雨対策関連をがっちりするかぐらいなんだけど。。
動物園撮影を趣味とする青年と話してちょっと考えたというだけの話でした。。
ぶち猫ブラザーズの活躍と旅立ち
お隣のおばさんによれば、我が家の庭は、昔から猫に好まれる通り道兼休憩所みたいな場所だったらしい。考えたら、猫から見ても、あとから引っ越してきた自分たち家族のほうがこの土地の新入り。
この子一時期うちの庭でかなり幅をきかせていて、バッタなどを置いて行ったりしていた。
(桜の花びらみたいに耳がなってるのは、地域猫の証だそうです)
地域猫が多い地区で、引っ越し当初からいろいろな猫をみかけた。
うちのウッドデッキは人間の利用頻度は低く、おもに猫が立ち寄ってごろごろし爪とぎする場所になった。
(人が出入りする目の前に座る割に油断がない面構え)
猫ウォッチは好きなので、トイレさえしないでくれれば問題なかったが、けっこう花壇にトイレされたので困った。
ショバ代のつもりなのか、玄関先にバッタなどの貢ぎ物?が置かれることが頻発した時期もあった。
そして玄関前では少し前まで隣家の高齢猫ネロ(黒猫)がよくウトウトしていた。去年ついに18歳で亡くなったが、そこは前の家があったころからのお気に入りの場所で、庭の形が変えられ新しい家が建っても定位置は変わらなかったらしい。なんだか不思議。
そして新型コロナ問題で私がずっと在宅勤務だった時期、ネロちゃんの後継者として隣家にもらわれてきた保護猫の白黒ぶち兄弟(2歳)がうちの庭に常駐するようになった。
ハチワレの子とホルスタイン柄の大柄な感じの子で、同じ時に産まれたらしいけど父親が違うらしく顔つきも体つきも似ていない。
二匹は去年お隣にもらわれてきたらしいが、ずっと無人に等しかったうちの庭に突然おばさん(私)がうろうろするようになって、どう思っていたんだろうか。
だいたい朝、隣のおばさんがいってらっしゃーいというと、塀を越えてうちの庭にやってきて、お昼ごろおばさんがご飯よーというと帰っていく。まるでうちの庭が幼稚園みたいだった。
彼らが庭を探検して、え、これなになに?という感じの初々しい様子が見ていて面白く、ぴょんぴょん虫をおいかけたり、庭の隅の穴をのぞき込んだり。私は家に籠り切りの日々だったが、うるおいを与えてもらった。
なによりこの子たちはトイレをしていかないのが素晴らしい(笑)
悪さしてたら言ってくださいねと言われたが、トイレしないし、鉢植えなどにいたずらもしない。
(鉢植えは倒さないが、実家の庭から引き上げてきた動物の置物が時々倒されていた。敵とみなしたのかもしれない。)
一度うちのブルーベリーの肥料(5㎏入り袋)を戦果品のようにおばさんのところに持って帰ったことがあるぐらいだ。返却された肥料袋は角のところに歯形がついていた。肥料は半分くらい残っていたので2-3キロを運んだことになる。どうやって肥料を咥えてブロック塀を上ったのかは謎。
先代のネロはイタリア語で黒という名前だった。今度は中国語が採用されたらしく、ヘイ(黒)とマオ(猫)。
(塀の上のへーちゃん)
(マオちゃん。ひげ長い。そして洋猫みたいに尻尾太い)
おばさん曰く、去年1歳で引き取ったときの二匹はそれまで野良猫だったので苦労し、その後黒っぽいヘイちゃんは甘えてくるようになったらしいが、白の多いマオちゃんは1年たった今も膝に乗らないし、なでさせないらしい。性格も違う二匹みたい。
庭の手入れをしていると、足元近くをこわがらず通過する二匹にびっくりした。携帯で写真を撮った。甘えてこないけど、慌てて逃げることもない。
へーちゃんはいつもちょろちょろしている印象だが、私をみかけるとしばらく近くにいて、その後去っていく。あ、いつもの庭のおばさん?ちーす、ごろーん、じゃあまたねーいそがしいんだ、みたいな。
ちょうちょか虫に夢中になっているときに一眼レフを持ち出してみたが、そのときは沢山へーちゃんを撮ることができた。ちょっと野生っぽく目がギラっとしてた。
(眉毛?が線香花火みたい)
ある日在宅で仕事中に、マオちゃんに窓の外からまじまじと見つめられたときにはややドギマギした。彼はなつかないけど、人をよーく観察する。そして案外撮られるのは嫌いじゃないみたいだった。
あるとき二階のベランダから庭のマオちゃんに声をかけたとき、最初びっくりしたあと、地面から塀に飛び乗りこっちをじっくり見て、太いしっぽを「ふぁっさ、ふぁっさ」とゆっくり振っていた。
また違う日に勝手口に近い部屋でミシンを使っていたとき外をうろうろするマオちゃんのシルエットが見えた。声をかけるとまた戻ってくる。
勝手口のドアをあけて声をかけてみると、「庭のおばさんは上からも出てくるし、このドアからもでてくるのか」とまたつくづくじいっと見られることになった。またしっぽをゆっくりふぁっさふぁっさしていた。
(ふーん、こっちからもでてくるんだー)
(大雨の後で泥とゴミだらけ。。)
猫写真家の第一人者である岩合光昭さんの本を読むと、猫に撮らせてもらうには、まずこっちからじろじろ見ないで、相手の猫に自分を観察させること、と書いてあったので、沢山観察してもらえばもう少し慣れてくれるんだろうか。と考えたり、塀を上ったり下りたりするところを流し撮りできないかなどと考えたりしたがなかなか難しい。
私のアプローチが悪いのか、小さいレンズをつけていても緊張されるので、望遠レンズですこし離れて撮るようになった。
二匹の滞在時間が増えるほど、ほかの猫をみかけなくなり、フン害がなくなった。とてもありがたい。飼い猫が常駐する家の庭は、野良猫がフンをしなくなるというのは本当なんだ。
(おばさん毎日枝いっぱい切るなあ。。)
ある日のこと、小事件を目撃。
庭でにらみ合い双方声をあげているマオちゃんとよその年上猫を見た。
ナーオ、ナーオ、マーオー!!!
うぁーおうう・・うぁーお・・
とただならぬ声をお互い張り上げてなかなか終わらない。
遠くから望遠レンズで見ていると、やがて相手の年かさの猫が目をそらし、立ち去った。マオちゃんは胸を張って座り、相手のしっぽをかいで見送っていた(血を見なくてよかった)。
これはもしや、マオちゃんが縄張りを主張して口喧嘩の末、年長者を出ていかせたのか?
(眼付悪・・いや強そうな猫だけど若造に譲ったのか。)
ノラネコのケンカ「鳴き合い」、勝ったオスは仁王立ち | sippo(シッポ) |
観察力あるひっこみじあんで静かな性格のようで、実は強気なやや謎キャラのマオちゃん。おばさんによれば、彼は身体能力に自信があるらしい。骨格が洋猫っぽく大きいし威嚇されたら迫力あるだろう。
ぶち猫の性質について書いてあるサイトをいくつか見ると、黒主体のぶち猫はフレンドリーで明るく、白主体のぶち猫はおとなしいが案外強気、とあった。まさにそんな感じ。猫の毛色が気質に影響することが多いのは、毛の発色と、神経系の発達に関連性があるというのも読んだ。なかなか面白いね。
(ものおじしないへーちゃん)
そして緊急事態宣言が解除され、私は長期入院している叔母の都内の留守宅マンションからベランダのゼラニウムを5鉢一気にレスキューしてきた。臭いけど強いゼラニウムは、ドライフラワー寸前だったが、うちの庭で放置しているうちにみずみずしく復活して花芽をつけた。
これは猫が嫌いな植物と聞いたが、どうなんだろう。
(ローズマリーも猫が嫌いと聞いたことがあるが、へーちゃんは頭を突っ込む。)
私は50%出勤になり、家にいることが減り、業務もそこそこあわただしく、在宅の日も外をみないことが増えた。気づくと最近は二匹をあまりみていない。
隣のおばさんによれば、大人になってきた二匹は遠征距離がかなり伸び、もうおばさんが塀越しに「ごはんよー」といっても声が届かないので、二階のベランダからかえってらっしゃーいと何度も大声で呼んでいるのだとか。
夜も遅くまで帰ってこないし、ごはんっていってもなかなか来ないし、一体どこまで行ってなにしてるのかわからない、困ったもの、という話を聞いてこれはまさに18-20歳くらいの元気盛り男子の行状なのでは、と思ってしまった(二人は去勢してあるけど、雌猫には興味はあるらしい)。
ああ、それで二匹をあまりみないのか。。そして庭も5月ごろの花壇のさっぱりした時期を過ぎ、しつこい梅雨で湿気が充満しその上に臭いゼラニウムや、レモンのにおいの強い蚊連草などが玄関先に導入され、花壇はトマトやインゲンなどの野菜が生い茂って暗くなり、あまりいごこちのよい場所でなくなったのかも。
おばさん曰く、最近遠征にいくときは玄関と花壇があるうちの前側ではなく裏側を通って出ていくそうだ。表にはゼラニウムがずらっと並んでいる。
表の花壇を野良猫のおとしものから防御するためには、家の表側のゼラニウムたちをどこかに移動させ、花壇方面に二匹の痕跡をしっかりつけてもらったほうがいいのかもしれない。
あの隣のゲーセン前はおれたち毎日よくいったよなー今思うと子供の遊びでわらっちゃうよなーとか兄弟で言い合ってたりして(笑)
とちょっと寂しい思いだ。
でも家にいると囚人みたいで窒息しそう、といっていた同僚もいる中、私がうるおいのある在宅期間をすごすことができたのは、若いぶち猫兄弟がちょろちょろしてくれていたから、とつくづく思う。
おばさんにはお礼もかねて一眼レフでよく撮れた写真をプリントしてプレゼントするつもり。
またおいでー。
2000年前の1/3粒
暑く晴れた日曜日、川越に車で買い物にいくついでに、伊佐沼の古代蓮を見に行った。
久々にカメラをじぶんちの庭以外に持ち出した。
蓮の花はすっきりしてる中にふんわり包むような柔らかさもあって好き。。レンコン食べるのも好き(酢の物も、きんぴらも、はさみ揚げも、レンコン餅も)。暑い日にサイクリング中ぼーっとした頭で蓮の花見るとあの世にいったかと思うけど。。今回は車で。
伊佐沼の古代蓮は何十年かまえに千葉の発掘された遺跡からでた種で始まった大賀ハスというらしい。そのとき3粒だけ見つかった種のうち1粒だけ発芽して、放射性炭素年代測定をしたところ、2000年前の弥生時代のものとわかったらしい。今はあちこちで栽培されている(下のwiki参照)。発芽させた大賀先生すごいな。
そして、私が蓮が好きになったルーツは、毎年両親の帰省で帰っていた岡山にある後楽園の蓮池が子供心に気に入っていたことなんだけれども、今回調べてみて、伊佐沼と後楽園の蓮は同じその「大賀蓮」と呼ばれる古代蓮だったことがわかった。なんだかこれはうれしい発見だなあ。
伊佐沼は行田の古代蓮ほど有名ではないけど人々がそこそこ集まっていた。家族連れ、老人グループ、望遠レンズおじさんたち。
伊佐沼の蓮は何年前が最初だったか覚えていないけれど、最初に見にいったときはまっすぐ上向いて乱れなく開いた花を探していた。
今回は周りのはっぱや水との関係を見たり葉っぱに落ちた花びらも眺めてみるのが面白かった。
200ミリよりもっと焦点距離の長いレンズがあったら親子亀が重なってたり長時間水にもぐってでてこない小さめの水鳥カイツブリとかよく撮れたかも
(親がめの上に子亀をのせてー)
たぶん朝から長時間腰を据えている感じの木陰三脚おじさんに話しかければ蓮撮りの極意が聞けたかもしれない。いやそもそも蓮は早朝から見ないと、と言われるのが目に見えるけど。
(ちょっと緑によどんだ水面に青空と雲)
行田の蓮は白もあるのにここはピンクだけなんだな、と退屈そうにいってる人もいれば、葉っぱにたまった水にポコポコ空気が湧いているのがなぜなのかと持ちきりの家族もいた。小さい子が、人間は葉っぱに乗れるの?と聞いていたw
ほら、真ん中の水がプクプクしてるでしょう?
帰宅後別の調べものをしていたら、小原古邨の蓮の絵が偶然でてきて、その絵には傾いてる花とか葉っぱにたまった水とかが描かれていて、昼間の景色を思い出し共感した。
おまけ情報として、隣の伊佐沼農産物販売所では、川越の人気パン屋さん「楽楽」のサンドイッチや菓子パン売っていた。近くの人影がまばらな公園のベンチでほうれん草の食パンのツナサンドとマスタードチキンパンとクリームパンがおいしかった。
ちかくのあぜ道ではザリガニとりをする網を持った子供たち、青空を見て一息ついた。
レンコンのように今後の見通しが効くようになるといいんだけど。
そして上の絵と一緒にでてきた小原古邨の蓮の葉をかぶって踊るキツネの絵がかわいいじゃない。(絵をそのままブログで貼るのにインスタ以外の方法はないものか)
あと本当に余談なんだけれど、この↓「私の部屋」のオリジナル九谷焼のレンコン模様のお皿が好きで、「いつか余裕のできた大人になったら」(苦笑)何枚かそろえようと思っていたら、「私の部屋」のお店に行ってもこのお皿をあまりみかけなくなって、今公式サイトにいってもオリジナル商品として紹介されていなかった。。
もたもたしているうちに廃番になっちゃったのかな。。同じレンコン模様のお皿でもニトリとかほかのところが出しているのじゃ風情が違うような気がする、、。
自転車ジャージの歴史を知らなかったので
自転車ジャージがいつどのような素材だったのか、年齢のわりにファン歴が短くちっとも知らなかったことを認識したhttps://tannenbaum.hatenadiary.jp/entry/2020/05/30/123016
ので、読んでみたサイトを自分用に雑に訳してGoogle Documentにいれていたのを記事にしてみます。
まあ、ここで追っているのはその時の先端技術として出現してきた素材がどうだったか、というもので、市井のサイクリスト(そのような層がどれぐらい各時代や地域に存在していたかもわかりませんが)が何を着ていたかというところまではわからないですけどね。ちょっと勉強になりました。
私が読んだのはhttps://seemewear.com/という自転車で自動車事故に遭った経験のある米国人が始めた視認性のよい蛍光色のジャージを販売するサイト(視認性よく走ろう、という社会活動的なものなのかな)。なので蛍光や夜光素材のところに重きを置いている部分は全体の流れを知りたいという今回のエントリーでは割愛することにしました。すみません。こんどまた記事にしようかと思います。
- でもこの視認性のよい姿で走ろうという考え方はもっと注目されて良いと思うので、デザイン次第でこの発想の市民権は広がると思うし、一般メーカーにも検討してもらえるといいのかもしれません。
- そもそも蛍光・夜光に着色する技術を1940年代に発明したのが自転車事故で視神経を損傷して暗がりでの療養経験のあるスイス人Switzer兄弟(https://www.dayglo.com/)だったとは知りませんでした。
さて本題へ。
自転車ジャージは初期はとてつもなく重くゴワゴワしており、年月を経て軽量・高機能・カラフルになった。自転車用ジャージが必要になったのは1800年代、自転車競技の人気が高まり、サイクリストは有利なウエアを求めた。その変遷を見てみよう。
1900年代初頭:ウールのデメリットとシルクジャージの出現
(ジャージにシルクが使用されていたとは、知りませんでした。。快適だろうけど、乱暴に着脱したり摩擦ですぐ破れそう。あと静電気すごそう。だけとシルクのジャージ見てみたい&着てみたい)
1900年代初頭、自転車ジャージはすべてウール製だった。長袖でとてつもなく重くいつも快適とは限らなかった。ウールはしかしメリットがあった。コットンよりはるかに湿気を弾き、汗をよく吸った。
そういう意味では冬も夏もウールの自転車ジャージは理想的だった。しかしひとたび濡れてしまうと、とんでもなく重たくなり着心地は悪くなる。ウールは通気性の面では優れていないという点もあったが、長い年月スタンダードだった。皆、欠点は我慢してきたのだ。
多くのウールジャージは無地でデザインの側面はなかった。中にはチーム名やストライプで選手の区別を付けるということもあったが、多くは地味なものだった。時代が流れデザイナーたちの一部は創意工夫をしてパッチワークデザインや違う色との組み合わせや、ストライプなどアバンギャルドな試みをするようになり、よりカラフルな時代になってきた。
また、色別のジャージでレース内での地位を示す、という使われ方をしてきた。たとえばイエロージャージ。
1940年代:バルタリやコッピのカラフルなジャージ
1940年代前半はイタリアの仕立て屋Armano Castelliがウールより軽い代替品としてシルクのジャージを考案した。カステリはジーノ・バルタリのためのジャージをデザインしたことで名声を博したがそもそもはライバルのファウスト・コッピがより速く走行できる軽量なジャージについてカステリに打診したのだった。
新しいタイプのシルクのジャージが知られるようになると、サイクリストたちはより速く走るためにシルクを採用するようになった。シルクはより軽量で生地を垂れさせることなく襟、ポケット、ジッパーなどの加工がしやすかった。
シルクはまた、ウールよりもはるかに様々な染料を使いやすかったので、カラフルなジャージが登場することになった。そこでジャージにビジネス効果、つまりロゴや宣伝をジャージに盛りこむことが可能になった。
Rio Van LooyやLouison Bobet、Jacques Anquetil, Bernar HinaultやEddy Merckxなどの伝説的サイクリストたちは長い間カステリのジャージや関連アパレルを使用していた。
(サソリマークのカステリさんは先進技術の開拓者だったのですね)
第二次大戦後:大戦をきっかけに新素材とフレキシビリティがもたらされる
(いよいよ今の素材がでてくるわけで、自転車乗りのことをライクラ野郎、とかいったりするはこの時代以降ですね。)
第二次大戦まで自転車ジャージに変化はなかった。
その後ポリエステル。スパンデックス、ナイロンが発明された。それら3種類の生地は他のスポーツ同様に自転車ジャージの進歩を加速させることになった。
Lycraは自転車アパレルに大いなる進歩をもたらした。当時の生地と比べてLycraははるかに上回る伸縮性、耐久性をもたらしたのだった。Lycraは自転車ジャージだけではなくスキーーパンツ、ストッキング、ウエットスーツやソックスなと広く利用されることとなった。
https://www.toray-opt.co.jp/brand/logo.html
サイクリストたちにライクラがもたらしたのは、エアロ効果、軽量性、速乾性、多彩な色彩であった。水玉、ストライプその他多くのデザインが可能となり視認性が高くなった。
ときには奇妙でぶかっこうなデザインや宣伝のやりすぎで逆効果なものもあった。
(べたべたあちこちに多くのスポンサーロゴがくっ付いてるプロ選手のジャージデザインへの安心感というのは私が自転車レースを見始めた時代によるものなんですかね)
蛍光色、今日のジャージへ
(すみません長いし別の意味があるので、次の機会に)
現在のトレンド
自転車ジャージは大きな変化をとげてきた。特にウールからの軽量化。ライクラとポリエステルへ。そして自転車ジャージは競技自体を色々な面で深く研究する材料となってきた。例えばCycling magazineは15のジャージから自転車の歴史をとりあげた。
近年ウールジャージが見直されている。肌寒い冬の間メリノウールを着たがる人たちがいるのである。これはにぎやかでごちゃごちゃしたデザインからシンプルなデザインへの回帰、という側面もある。
新しいトレンドが表面化しつつあって、ほかよりも有益な特性を持つものもあるようだ。最近自転車ジャージは日焼けから守る機能も有している。また竹やバイオセラミック生地も使われることもある。まあ我々はただの昔ながらの普通のジャージが好きだったりするわけであるが。
1984(ウールジャージと並木道)
若かりし頃に流れていた音楽は、子供のころの食べ物の香りのように記憶を呼び覚ますのかもしれない。
在宅勤務中の音楽について話題になったりしていましたが、自分は日によって違っていて、人の声をなんとなく流すときはNHK第一放送や、ブライアン・イーノとかのアンビエント系プレイリスト、ハワイアンとか、バロックとか、能楽のときも。「寝る前用、リラックス」という触れ込みのものもしっくりくる。
イケイケ系のは自分の仕事中にはあまり合わず、逆に鎮静化させてくれるのが合う気がする。もしかして、デフォルトでは興奮してるのか。そして本当に追い込まれたときは気が付くと何も聞いてない。
で、ある時どういう関係かでてきた動画。サムネイルに出てきた自転車ジャージに、スクロールの手が止まった。
The Style Council - My Ever Changing Moods
1984年リリースの、英国のバンド、スタイル・カウンシルのMy Ever Changing Moods.
就職したら給料は未来永劫上がり続け、不動産も株も買えば値上がりするものとされていた。この曲を聴くとどの子がどこのDCブランドの服を着て、誰がどんなクルマに乗ってたとか、授業の代返とか、著書さえ買えば優をくれる教授とかがふっとよみがえる。ああおバカ学生時代。
バイトを週4日入れ、大学の授業抜け出して友達と「カフェバー」で油を売ってるときにかかっていたような曲。そんな当時の空気を思い出させる。
このアルバムは当時の私の周囲では必須科目だった気がする(ダビングしてもらったカセットテープしか持ってなかったけれど)。ステンカラー・コートの着こなしカッコいいね。
- この曲のPVを30数年後に初めて見てなんだかびっくりした。いや、見ていたけど当時興味なかったのかも。
- Modの父、Paul Wellerが自転車をやる人で、ウィギンスやブライアン・ホルムなど自転車界にこの人のファンがいる話は見聞きしていたので乗っていることには驚かなかったが。
ベルギーのレトロジャージ販売サイトから。https://www.magliamo.be/boutique/cycling/jerseys/raleigh-creda-team-1980-short-sleeve-jersey/ - しかし、私の青春時代当時の流行りの曲とウールのサイクルジャージとレトロ風味の自転車が同時代だったのか。1984年はそんなに昔だったのか、、。
- いや、もしや、ポール・ウェラ―は当時としてもレトロなウールジャージがイケてるっていうことで着てたとか?
・・と思ってFacebookに書いてみたところ、
「当時は化繊とウールが混在していた」
ツールや世界選などの世界トップクラスのレースは化繊。
と当時高校生だった(意外と世代が近い)ネモトさんがコメントくれました。ネモさんは即座に「サーティ・ワン」という所属していた強豪チームのウールジャージと、ローラン・フィニョンが写真で着ているのをよく見る、ルノーの白に黒と黄色のチームのウールジャージの写真も貼ってくれました。
ネモさんの貼ってくれた写真。ネモさんは現在に至るまでベルナール・イノーのファンだそうです。イノーもこのジャージ着てたんですよね。
- レトロじゃなくて、普通のそのころのジャージだった。。自転車もバーコンでシフトチェンジしてるし。。。*1
- 私、、古い人間。。。思っていた以上。。
その時代の自転車レースの動画をちょっとさがしてみたりした。そう、その時代はツール勝者でいうとイノー→フィニョン→レモンというツール王者の移行期、歴史に残る色々な逸話があったりした時代ですよね。
Kellogg's Start Cycle Championship 1985 - Manchester & Cardiff (incomplete)
これは1985年のKellogg's Start Cycle Championshipというレース、スタート前列には元ツールの覇者Lucien Van Impeが出ていたり、Allan Peiperがすごいかっこいいサングラスをしていたりだけどジャージは化繊のようだ。ただしデザインはウール時代のに近いものも多い。
- だけどここでもひっかかったのがオープニングの音楽。
U2の”Pride"という有名な曲が使われているんだけれど、自転車周りに感じる古ーい感じと、自分がこのU2の曲に感じる古さにはかなり感覚的なズレがあるのだった。
U2 - Pride (In The Name Of Love)
これですね。
だからどうなの、といわれてもとにかく当時音楽は自分に身近にあったが、そのころ自転車に興味を持ってなかったせいなのかもしれないけど、傍からみるといっしょの「30年以上前」なのだった。まあ、それだけの話。
※(ウエアの変遷についてちょっと検索したので次回はその話題に続く)
(追記)こちらの記事もアップしました。自転車ジャージの歴史を知らなかったので - tannenbaum居眠り日記💤
あとこの冒頭に取り上げたPV、並木道を走る風景はよくオランダあたりのレースに出てくるよね。というのも思ったら、エクニさんからは
「GPミストラル感があふれる」
というコメント。そう、ミストラルにはこういうまっすぐな並木道(短いけど)があって、なかなか絵になったのだった。私にはあの並木を効果的に絵にする力もレンズもなく、いまいちの写真しか残っていない。横から見たところの写真はあった。
まあいずれにしてもシクロクロスを見慣れた人間にはなんだか親和性が高いPVだった。
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余談ですが、自転車乗りのミュージシャンといえば大学時代の自分がより熱心に聞いていたのはこっちのほうだった。David Byrne。やっぱりこの人も細いね。
Talking Heads Full Concert 11 04 80 Capitol Theatre OFFICIAL
びっくりしたのは、卒業旅行で訪れたモロッコとスペインでやたらトーキング・ヘッズがそのへんのラジオで流れていたこと。オレンジやオリーブの畑が連なる乾燥した丘陵地帯を走るフロントガラスにヒビが入っているベンツの観光バスの中でけっこう長い時間流れていたな(かなりの余談)。
ディヴィッド・バーンはBicycle Diariesという本を出している。
*1:「まだデュアルコントロールレバー無い時でダブルが普通でインデックスも無い時。」っていう解説はすぐにわからなかったけれど
チューリッヒ、石造りの下のなんなんタウン
(この記事の写真全部スマホで、ブレていたりします)
世界選が開催されたチューリッヒへの旅から帰ってきて1か月ぐらい。
もともと事前に観光情報とかその国関係の本を読み漁り、現地では動き回りたい派だったのが、歳を取るとともに、調べないで行ったり有名な観光地をスキップすることも増えてきたような気がする。
(ホテルのある町から電車で15分でチューリッヒ中央駅。)
特に今回は行くこと自体を直前に決め手配もギリギリになったけれど(恥ずかしながらスイスの通貨がスイスフランなのも直前に知った)、こういう旅行もまた楽しかったな、と思い起こし中。その国の様子がわかったとはとてもいえないけれど(笑)
たとえば、帰国前日の夜晩御飯のショートパスタを早めにアパートホテルのキッチンで作って食べたあとにフラフラしたチューリッヒ中央駅地下街。
(ここは電車ホーム上がってすぐ。エキュートみたいなものか。ホーム近くは今風のカフェなどが多く比較的パリっとした印象。)
昨年の世界選帰途のストップオーバー地点フランクフルトでは中央駅周辺にはお金に困っている感じの移民系の人たちの不満が渦巻く油断できないムードだったけれど、チューリッヒ中央駅は治安が良い。移民系の人たちも含めて皆そこそこの生活ができているようでした。
(ほら、この階段のおりていく感じが岡山一番街。)
まず感じたのは昔おじいちゃんちに行くときよく寄った「岡山一番街」感。きれいでなんでもあるけどローカル感ある地下街(今の岡山一番街がバリバリのイケイケだったらごめんなさい)。
服屋さんも学生時代に覗いていた西梅田や東梅田方面のお手頃服がどっさり掛かっているお店を思い出すようなのとか、電化製品のディスカウントショップとか。
電車のホーム上がった近くはパリッとしたお店も多いけど、端の方にいくにつれなんとなく昭和感。
そして有料トイレ。係の人を煩わせながら利用(それまでカード中心で現金をあまり使っておらず、現金をトークンに換えたあとどれがスイス通貨でどれがトイレ用トークンかわからなくなっておばちゃんにじゃらっと広げたのをみてもらったり)しつつ、歩くとけっこう広い。
景色はやがて、昔のなんばのなんなんタウン(ミナミは詳しくないけど何となく)感、子供時代の自分にとっての最大級の都会の象徴「阪急三番街 水のある町」みたいな水を使った仕掛けも出てきて、スイスに日本の地下街懐古に浸るためにきたのかと。
たぶん天井が低いというのも大きかったかも。
・・・で、ようやく地上に出てみたら一転、欧州の伝統的な石造どっしり世界。駅舎も駅から階段上がった目の前の博物館も風格ある。
この重厚感と風格が地上にあるのにそれを活かさない若干もっさりした地下街。
でも日本だって京都の人たちも別に町家を改装したオシャレショップだけで生活しているわけじゃない。
地上を歩いてみると安めのH&MとかGAPとかのブティックもそりゃ石造りのビルの中に入れこんだらそれだけでカッコいいわ。
スーパー系のオシャレショップ的なビルに迷い込んだけど、スーパーと百貨店の中間みたいな雰囲気で、今はもうない大宮西武デパートみたいだった(そんなたとえばっか)
高そうなグルメバーガーやさん。
トラム。夜の交通機関も清潔で明るく治安はよい安心感。値段高いけど。
焼き栗屋台はイタリア系のおじさんが賑やかに売っていた。うす暗い夜の通りでそこだけポッと温かい。焼き栗はレース会場でも地味に売ってた。買ってみればよかったな。
フラフラ歩き過ぎてホテル最寄り駅に着いたら21時になってしまった。駅舎などの時計はいわゆるスイスウォッチなデザイン。視認性よし。
(しかし地上と地下のギャップが面白い。この下が一番街(笑))
結局、観光地はみない散歩になったけど、面白かった。
そういう旅も楽しい。でも人生残り少なくなってきたから世界遺産的なものを見なくて勿体なかったとも思う。。
お土産はほぼスーパーで買ったものと出発前に空港で買ったSIGGボトルぐらいか。立て付けがよくて非常に使用感のよいボトルです。
素材感あふれていて店員さんの説明聴いたら面白そうなレダラッハのチョコを買いそびれた。
次回スイスに行くときは有名な修道院とか湖とかフレスコ画が建物を彩る町とか温泉とかに行ってみたい。
英国で起きているバースト
「その後活躍する選手が増えた英国では、今シクロクロスシーンはどんな感じ?」2016年の夏、北京のUCIレースにチームスタッフとして来ていた英国人Liam君がチューリッヒの世界選に観戦に来ていたことを知り、帰国後、質問を投げてみた。
今回、英国勢がひとつの勢力となりつつあるのを目の当たりにしたのも理由。しばらくして熱心なメッセージが返ってきた。
(abemaさんから頂いた牛串の向こうのリーアム君の写真。現地では会えなかった)
ちなみに2016年に北京で立ち話したときの内容は愚痴まじりなもので、「英国のシクロクロスがどんなかって?一部の好きな人たちがやってる感じ。注目されず、レースにも選手にも予算が出づらく、国内のレースは公園利用のコースばかりで恵まれた場所は使えないんだよね。メリットといえばドーバー海峡を超えたらすぐベルギーに渡れることかな。」のようなものだった。
(2016年8月、北京のレース試走日)
そのころ英国はロードやトラックでは大国でもシクロクロスでは成績も出場選手数も目立たない「その他」の国の一つな印象(昔ロジャー・ハモンドがジュニアでタイトルをとったけれど)。マウンテンバイクの選手がぽつり、ぽつりと出場していたようなイメージ。女子のほうでニッキ・ブラマイヤーやヘレン・ワイマンとかは活躍していたけれど女子レースは今ほど脚光を浴びることがなかった。
その後国内でのシクロクロス競技の地位がアップしていく流れを目撃したリーアム君からのメッセージは以下の通り。
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「こんにちは、モミコ。日出ずる国のみんなは元気かな。
僕はぶっちゃけ、トム・ピドコックが英国の人たちのシクロクロスへの見方を変える大きな影響力を持ってると思ってる。
英国のシクロクロス界のバーストは、世間の人々がベルギーやオランダで英国人の若い選手がすごい成績を上げ始めたって気づいた時に起こった。君と僕が遭遇した16-17シーズンの北京の4か月後、英国人がシクロクロスの世界選でポディウムに登ったんだ。
(※エヴィ・リチャーズがZolderの世界選でその年初回のU23女子で優勝し、さらに翌年ピドコックが男子ジュニアで優勝)
例年シクロクロスの世界選手権は英国車連(British Cycling)がずっと重視してきたトラック国内選手権と同時期に開催されるんだけど、そのBritish Cycling https://www.britishcycling.org.uk/ のウェブサイトの見出しトップにトラックを差し置いてシクロクロスが出たときの驚きって君には判るよね!
25年ぶりの英国人によるシクロクロスの世界タイトル獲得ということでテレビ局でも取り上げられたんだ。
そのことがきっかけでそれまで普通の人たちに自転車競技の話をしようとしても彼らの頭に浮かぶのはまずツール・ド・フランスだったし、シクロクロスなんて僕らが言っても何のことやらわからない"no idea"という状況だったのが、一般にシクロクロスが知られるようになるきっかけになった。
英国人の若手選手の活躍が続いて、最近はベルギーのチームも英国人選手を採用し、この競技の世界の中心地でキャリアを築くチャンスを与えるようになってきた。それでより多くの英国人がこのスポーツについて知るようになってきているんだ。
英国車連はオリンピック種目を優遇するので、良い選手がシクロクロス競技を離れてしまう例を僕はこれまで沢山見てきた。個人的には、本当にその選手がやりたい競技を選択できるべきだと思うんだ。何週間か前英国車連は彼らのアプローチと競技間の公平性についてのアンケート調査を行ったけど、いいタイミングだと思うし、今回のピドコックのリザルトが大きなメッセージになって彼らがシクロクロスをもう少し重要視するようになるといいと思う。」
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(ロードで世界選U23ポディウムに上った後に参戦した今シーズンのピドコック。パリ・ルーべのエスポワールでは優勝している。記者会見ではミニ・サガンともいわれる彼の今後の進路について質問が相次ぎ、今後も冬はシクロクロスのレースに出場し続けるつもり、ということを繰り返していた。)
今年の世界選、英国は男子エリートでピドコックが2位、女子エリ―トでリチャーズが6位、男子U23 でキャメロン8位、女子U23 でアナ・ケイ3位、男子ジュニアマックグイーアが9位、女子ジュニアでクーザンスが4位、ネルソンが7位。どのカテゴリーでも英国ジャージが目につくようになった。
(エヴィ・リチャーズ。ボリューム感あるおさげ髪が目印。もともとマウンテンバイカーの彼女は昨年のオリンピック・テストイベントに来日していた。)
ピドコックとTRINITY RACINGでチームメイトのキャメロン・メイソン。U23 で8位。さわやか青年(に見える)
U23 女子の表彰台。小柄なアナ・ケイは優勝候補だった。
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北京で立ち話したときから隔世の感はあるけれど、リーアム君の話では国を挙げての振興策というのはなく、実質強い選手が出てきたので注目され、チャンスが広がってきているようだった。
米国のように毎年車連がヨーロッパキャンプと称して毎冬20人規模の選手団を送り込むというはなかなかできることではない。
やっぱり、ピドコックのような、目立った活躍をするスター選手が現れるのが競技の振興には一番効果があるんだろうか。
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当ブログは出す前の段階の下書きがたくさん溜まっている。昨日つらつら見ていたところ、2017年に次の下書きがあった。ここに出てくる村上選手はお兄さんの村上巧太郎選手のほう。
タイトル「5分18秒」(2017年の下書き)
http://www.worldcupcyclocross.be/wp-content/uploads/20171219_HZOL_EntryLists.pdf
・村上選手が出場予定の、Zolderのジュニアカテゴリーのエントリーリストを見ると、先日IKO-Beobank入りが発表になり、直近のワールドカップNamurのジュニアで3位に入ったBen Tulett (英国)の名前があった。
・同じNamurでは女子エリートでも男子U23でも英国人が勝利してUCIチャンネルのアナウンサー、アンソニーさんはご満悦だった。
・NamurのU23 で優勝したのは今年はじめのBieles世界選ジュニアで優勝しているTelenet Fidea Lions所属、目下若手の風雲児Tom Pidcock。30位で完走した村上選手との世界選でのタイム差はこの時5分18秒*1。
・Otley's Tom Pidcock can be part of a golden generation | Ilkley Gazette ←Pidcockが英国シクロクロスの黄金世代を担うのでは、という記事
・https://www.cxmagazine.com/photo-gallery-junior-u23-men-2017-world-cup-namur-eurocrosscamp ←そして米国はEuro Cross Campを組織的に続けている。
去年の夏、北京CXで話した英国人メカニックのLiamさんは「シクロクロスはトラックやロードに隠れ予算も少ない中、好きな人たちだけでなんとか頑張っている状況」、と愚痴っぽく言っていたが、その後シクロクロスでは小国だった英国が最近一つの勢力になりつつある。もともとトラック競技はじめ有力な自転車大国である英国と、日本を比較するのは難しいけれども。
・この5分18秒、今後村上選手や日本勢はどれだけ詰めてゆくことができるのだろう。
*1:PidcockはロードシーズンはTeam Wigginsで走ることが発表されている