1996年ベルギー、プライベート参加で戦った日本人挑戦者たち
(ここまでのお話)
- 2月21日のエントリで、1995-96年シーズンの話を書きましたが、その話のきっかけになった東京シクロクロス観戦後のビールの夕べで、「クロスの鬼」佐宗広明さんから聞いた初耳の話が
「アダチモフ」がそのシーズン、佐宗さんの目の前でスーパープレステージのどれかのレースを完走した
- というもの。私はアダチモフこと足立晴信さんは国内レースを観戦始めた時期にカテ1で目を引く選手として認識していた。写真を撮ると絵になりやすいのである。。。どことなくスケールの大きさが漂い、目つきが印象的。彼はロードのほうでベルギーで修業していた、と聞いたことはあったが詳細は知らなかった、。
- その日のビールの会をアレンジしてくれた吉田さんとMillet.Kさんにも、アダチモフがSuperprestigeを完走していたことについては初耳だったようである。もともと同じカテ1レーサーとして「日本人離れしたフォームと走り。ヨーロッパかぶれした機材」に注目していたらしい。数年前、話をした際にすごい経歴(チャレンジロード優勝、乗鞍ヒルクライム1時間切りなど、スーパープレステージの話は出なかったらしい)を知ったのだとか。
- そして、吉田さん宅に眠る膨大なレースビデオのストックから、96-97シーズンにおける日本人探索の旅路が始まった。
- それに関するやりとりはこちら(コメント欄)http://d.hatena.ne.jp/tannenbaum/20130221/p1
- 最初は自宅で96-97シーズンのビデオをチェックし、おそらくDiegemのレースで優勝したポントーニにラップされるのをなんとか逃れゴールに入った二人の日本人を目視確認。さらにその仮説を確認し、そのほかの証言を得るため吉田氏はビデオを携えて佐宗邸で検証作業となったらしい。
- その検証結果を、吉田さんが私にメールで報告し、ブログ掲載を許可してくださった。
(上記写真は二枚とも2011-12シーズンのGPミストラルにて)
- 以下、吉田さんのメールをご本人の許可を得て転載。
※なお、文中、「ライタ」→鈴木雷太、「U-1」→鈴木祐一、「しんちゃん」→池本真也(以下すべて敬称略)
パンドラの箱をあけてしまった私は毒虫にまみれてもだえ苦しんでいます。
2013年の頭脳、経済力と90年代中盤の体力が合わされば自分もベルギーへ行ったのだろうか。こんな気持ちになってしまったのは生まれて初めてかもしれません。佐宗らともっと早く出会いたかった。開拓者はカッコイイ。そして思い出はいつまでも美しい。
結論を書きます。
ビデオの96ディーヘムはU−1のみ記録されておりました。謎の東洋人はアダチモフで正解です。別のレースでライタの完走シーンもありました。
96年のワールドカップコクサイデへ白赤の全日本ジャージを支給されて派遣されたのはライタ、関谷、佐宗、U−1、ジュニアのしんちゃんの5人。完走はライタのみ。ライタ、U−1、しんちゃんはオランダ拠点で長期滞在していましたが、関谷、佐宗はベルギーへ1週間程度の短期遠征。
ワールドカップは車連からの正式派遣ですが、スーパープレステージは誰でも出場できたそうです。(と佐宗は語るが、地元協力者(ロニーデヴォス、当時ベルギー選手権5位程度の選手)の 紹介だと思われる)そのベルギー班にアダチモフも合流し、ディーヘムを完走したそうです。
今回新たに話題に出てきた(自分も知りませんでした)関谷ですが、滞在可能期間が短くて帰国したため、残念ながらディーヘムには出なかったそうです。世界選日本代表に関係ない選手の遠征は94年ごろから始まっており、雷太、U−1、しんちゃんらをあえてメジャーとカテゴライズすると、佐宗、アダチモフ、杉山、杉村、田中らがプライベーターになるかと思います。杉村氏にいたってはポントーニ引退来日の際、日本でのホームステー先になったという、いい話もあります。
「あなたたちすごいすごいって言うけど、 藤森のシクロクロスは世界を目指すのが当たり前だからエッシェンバッハ(95世界選)にはどうしても出たかったさ。そういう時代だったんだよ。俺はあと1人で世界選代表になれなかったからプライベーターとして遠征し続けたまでだ。なに? 当時の思い出を俺にまとめてくれだと?
これ以上話を聞きたけりゃ直接当事者に聞けよ!!」(佐宗)
【後日談】
バイシクルクラブ97年3月号によると、96−97シーズンの遠征のまとめとして
- 足立晴信(片倉建設)
- ルーンハウト33位
- ディーヘム37位
- 鈴木祐一(ミタニPi)
- ディーヘム39位
- 荻島美香(アートネーチャー)
- ワールドカップオランダグランプリ15位
- 藤野むつみ(GIOS)
- 同21位
とありました。
ディーヘム、38位の選手は映っているんですけどねぇ。。。。。。
(補足)
上記のメールのあと、さらに補足メールが届き、「バイシクルクラブ97年3月号にはルーンハウトとありましたが、Overijseの間違いかと思います。映像を再確認したところ、ライタの映像はポディウムのメンバーから、そのOverijseのようです。とするとアダチモフもOverijseを走った可能性が。」とのこと。
【写真】吉田さんが送ってくださった、Superprestige Diegemのゴールシーンの写真。。後方からポントーニがガッツポーズをして迫る。その前をラップされる寸前で走り切った。
- 鈴木祐一選手。
- 足立選手。
- このレースの後、放送された映像をみたベルギー人たちからの反応を鈴木祐一選手がブログに書いている。http://u-1.jugem.jp/?eid=143 ←ブログのリンク
あの後、本屋に行っても、買い物に行っても、練習していても知らないオジサン、オバサンにやたらと「スーパープレステージ完走したんでしょ。で、あと2人日本人がいただろ」とよく声を掛けられるようになった・・・さすが自転車大国ベルギーだなと思ったのだ。(あと2人とは雷太さんとアダチモフのこと)
←フランドル1周レース補給地点近くの泥になった畑(2010年)
- 私がシクロクロスを見るようになってから、海外遠征をする日本人選手は、みな日の丸を背負ったジャージを着ていたように思う。世界選やワールドカップ以外のビッグレースに自力で参加する「プライベーター」(プライベート参戦者)、が多く存在したとは知らなかった。
- 当時受け皿となるルートや人脈がどうだったのか、等知らないけれど、とにかく代表チームに選ばれなくても自力で海外に飛び出して挑戦するというムーヴメントが当時の日本人選手に見られたようだ。
- 佐宗氏のコメントによると当時の日本のシクロクロスは世界を目指すのが当たり前、というものだったらしい。その方向性が絶対なのかどうなのか、私には分らない。ガラパゴス化もまた、「あり」という声もある。
- いずれにしても、自ら乗り込んでゆく気概のある選手がいて、やりたいとはっきり周囲に意志表示しアクションを起こせば、いつの時代も道は開かれ、手は差し伸べられるのではないかという気がする。あらかじめ敷かれたものだけが道ではない。
- 今回、この記事を出します、と足立さん本人に連絡したところ、その時の記録は、全員レースに出るかピットにいて写真をとるどころではなく、「あの二週間の記録は、持ち帰った、現地その場発行のリザルトと新聞とゼッケン位しかない」のだそうで、記事を楽しみにしているとのこと。